昭和四十五年一月二十三日    朝の御理解

 御理解第六十一節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬお蔭を話しにしておくのぞ。信心して御かげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話しをしてゆくのが、真の道を踏んでゆくのぞ。金光大神が教えた事を違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな」


 えー色々、おー、御教え、御理解がございますけれども、あー、このみ教え、え、は、どこをどう取らせて頂いても、おー、素晴らしいと思いますね。えー、「神心となりて人に丁寧に話しをしていくのが、真の道をふんでいくのぞ」と。んー、初めからここ辺りまでの所も、おー、本当によくよく一つ分からせて頂かねばならん所だと思います。大変大事なとこです。真の道を求め、求めしておる私達っとしてんはですね、ここん所が、これが真の道を踏んでいくのだという事を説明してございますからね。それから、「金光大神が教えた事を違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ」と。いう所のね、私は今日はここの所を、おー、追求していきたいと思います。「金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが神へのお礼ぞ」と。本当こらー、そのとうりだけれど又、大変難しいと思います。本気で、えー、(はい?)えー、取り組んでいかしゃ、本気で修行しなければ、とても分かる所じゃないと思いますね。神へのお礼ぞとこう、神様へのお礼という事がですたい、えー、金光大神が教えた事を違わぬように人に伝えてゆくという所が難しいと思うです。ね、その教えた、お話を聞いた事をですねそれを、その通りに人に伝えていくと言う事は、案外見やすいです。ん、けども金光大神がこう言われたから、こういう応じたら、こう御蔭を頂いたと言う事は難しいです。又それでなかなければ、相手に実感として伝わっていかんと思うのです。そうでしょう。教会にお参らせて頂いたらこういうお知らせ、おし、教えを頂いたと、素晴らしい教えというて人に伝える。まあ本当そ、そりゃぁ、素晴らしい事いわっしゃるのと、まあいう程度ではなかろうかとこう・・・ね。けども金光大神が教えられた事を違わぬように私自身が頂いて、そこから生まれて来る体験を共にです、人へ伝えていくと言う事が、私は違わぬよう伝えていくと言う事は、もう自分が証を立てておる、自分が実証しておる、ね、自分が食べて美味しいと思うたから人におし、美味しいというて伝えておる。中々美味しいげなばいじゃぁいかん。そうかのうち言うだけの事。ね、だからこの辺の所がね、私がよく研修され、修行させて頂かなければならない所だとこう思うです。ん、そう言う、自分が実証者になると言う事、金光大神の言われた事をです身を持って実証していくと言う事なんです。そういう私にならせて下さいという願いの基にです、信心が続けられていく所に初めて人に違わぬように教えても行かれる、それが神様へのお礼にもなり、なるほどこれならばそれが神になるのぞとおっしゃってこの意味がよう解かりますね。それなら間違えなく神になって行けれる。ね、金光大神の教えられた事の実証者が、私共一人一人がその自覚に立っての、私は信心の稽古であり、修行でなかなきゃならんと思いますね。そこで私は、例えば教典を(こいちんちの?)ここに、えー、合楽教会設立以来、えー、この教典に私共は、皆取り組んでおる訳でございますよね。もういつここが卒業になるだろうかと、これいつまで続くだろうかと、まあ思うくらいに続いておる訳です。例えばこのなら六十一節だけでももう何十回頂いたか分かりませんよね、実を言うと。けれどもその都度都度にその深さというか、広さに触れてまいりますと、限りがない。ね、言うなら、何年間という間これにお互い取り組ませて頂いておるんですけれどもですね、それを実証者としてのお蔭を受けておると言う人は、沢山はないと思います。そこで私は、えー教祖金光大神がこのように天地の神より金光大神尽きぬいつまで、いつまでも尽きぬおかげを話しにして残しておくとおっしゃる、その話しが、言わば教典なんです。ね、ですから、そのー、神様のお言葉であり、いー、金光大神がそれを、おー、身を持って実証されて私共に伝えておって下さるのである。我が身のおかげを受けて、そして、このように、えー、やはり人間の、おー、あらいる層の人達がです、階層の人達が金光大神のいわば、こういった信心体験をです、え、学問のある者には学問のある者、学問の無い物には学問のない者に至るまで、分かるようにかんで含めるように教えておって下さる。ですからね、ここにどうでも私共が、あの焦点をおかなければいならない事はね、金光大神は嘘をおっしゃっていないと言う事なんです。金光様はそう言うちゃるかもしれんけれども、教えにはそうあるかもしれんけれども、っと言うたらいつまでたっても実証者にはなれないです。ん、そりゃ昔の人達はそうじゃったかもしれんけれども、現代の私達に言うたら、そりゃ難しいとか、いう事があってはならないとこう。ん、「金の杖を突けば曲がる、木や竹は折れる、神を杖に突けば楽じゃ」とこう言う。ね、本当に楽だろうかと、私は神を杖に本気で突いていなきゃいけんと、神様一心にすがらなきゃいけんと、それを神様一心にすがらずに、金に頼り、木や竹にすがってそして、神様というておるのですから、いっちと、いっ、その証拠にいつまでも楽にならんじゃないか。木や竹は折れる、金の杖は曲がる曲がってばっかしおるじゃないか、折れてばっかしおるじゃないか。かれを、神を杖につきゃぁ楽じゃとおっしゃるのに、だから、楽でないならば、私はまーだ神様一心にすがっておりますと口では言うておっても、はー私はもう金光様一本槍ですと、違う所はございません、もう金光様だけですと言うておるけれども、その内容をよくよく検討してみると、まだ神に一心にすがっていないんだと、私は分からせてもろうてです、ね、そこん所をなら神に一心にすがるとはどう言うような事かという事を検討していってです、なるほど神様一心にすがっときゃこんなにも楽だと言う実証者にならなきゃいけん、でしょうが。ね、なるほど人が、人に頼るんじゃない、物に頼るのじゃない、ね。昨日の御理解中にもありましたように、ん、人に相談をしてもです、残るものは絶対寂しい物ばかりしかないんだと、それを人に頼る。神様に求めようとしない、人に求めようとする。答えは寂しいもの。ん、場合には私共は人にやっぱり求めたい、人に聞いてもらいたい。その時もあります。何か聞いてもらえぁいかにも楽の様にありますけれども、ぎりぎり分かたせて頂く事は、大した事はない、やっぱり寂しい物だけしか残っていないと言うように、ね、そういう風にして私共は人にすがり、物にすがり、金にすがりして折れたり、曲がったりそして、いるまでも楽になれない。ここんところ神様一本、神様一心にすがっていきゃぁです、楽だとおっしゃるだから、金光大神が嘘をおっしゃるはずがないから、楽になる所まで一心にすがりぬくぞと言う、私は姿勢をとらなきゃいけん、これだけ一心にすがっとるけども楽になれない、心の上にも、形の上にも、そんならまだすがっておるのが足りないのだとそ、そこん所を追求していくのだ。ね。そこにその、限りがない、言わばすがると言うて、すがるとこだけじゃないです、ぶら下がるとじゃないもん。(こっか?)信心で言うすがると言う事は、ねん。改まってすがる、磨いてすがると言う所に又、こりゃまだ改まりが足りんのじゃと言うような事にも成って来るでしょう。まあ色々、まあ例えばそのような頂き方なん、ね。 ここ、あー、四、四、五日私が言っております、ね、あれは御理解何節ですか、女がさえんに出てらをぬく時、ね、地を拝んで抜くような心になればお蔭があるとおっしゃる。それを煮て食する時、神様頂きますという心あらば、触わる事為しとおっしゃる。ね。その御理解を、私共、お、おー、他の、お、険峻とか、の、おー、健康とかと言うような、あー、縁に、えー、えー、まあアレンジしての御理解でしたですね。だから、私共がです、女がさえんに出て、ね野菜を頂く時に、本当にたいちを拝む心と言うものをです本気で行じて見らんといかん。そこにお蔭があるとおっしゃるから、そのなるほど金光様の信心させて頂く者は何事によらずです、ね、全てを、例えば自動車に乗る時、ね、ね、その自動車を、を通して神様を、たいちを拝む、心になればお蔭はあるとおっしゃる。乗る時も忘れとる、下りる時も忘れとる、こういう事でおかげの頂けるはずはないよね。目的地につかせて頂いたら、ね、神様有り難うございましたと、と自動車を通して自動車を拝む心、そこに何分の時間がいるいか、ね、信心させて頂いてそれを稽古しておるのじゃないか。ね、そういう信心になれば、触わる事無しと。ね、総ての点に置いてそうなんです。だから、今大変流感が、風邪がはやっとります。だから例えそれがですよ、ね、風邪に掛かってもです頂きますという心、又はたいちを拝む心、その風邪を拝む心。いよいよこれは風邪を引いたなーと思うたら、ね、それを頂く心。ね、その風邪を頂く心になればです、触わる事なし。私はこういう所をですね、私は本気に、私は稽古させて頂いてね実証していかなきゃいけんと思うです。今度はこの風邪の事でもうたくさんの人がこ、この実証者になられました。私はこれをくり返し申しますから、皆がそれを実証しておる。ね、本当に風邪は引きましたばってん、御用にはさし使いませんて言うておる。もうひこうごとありましたけれども、よしいよいよ曵く時には本気で頂くぞと言う気になったらお蔭で風邪の方から、向こうからさっ、避けて行くようにお蔭でまだ今ん所まじゃ風邪は曵きませんと言うておる。さあ風邪を引いたら暖かい所によってこうやってさあ薬飲んどいてこうしてと、と言うよるけんで何日間もうちゃんと寝らにゃん、その証拠に私は(みやさい?)て言う風に言っているんですよね、この事については。私が糖尿病になっても、足がないてしもうても、ん、風邪を引いても私が一日だってご、御結界をやめた事、御用をおことわった事ないじゃないか。ね、それを煮て食する時にです、ね、神様頂きますという心あらば触わる事為しと言うお蔭を頂いておるのです。ね、ですから私とてもそこん所はなぁ完璧じゃぁない。だからそれをね、極めて行くと言う事、そこから生まれてくる体験、それを私は皆さんに、ね、伝えて行く。(それいか?)それはホンに先生そうですなーと頂いた人は皆おかげを受けておる。先生はそう言いなさるばってん、やっぱ風邪ん時にや寝とかにゃと。ん、それでどげん思うたちゃ風邪は頂かれんと言うから何時まっでん風邪が、ね、触わる事なしと言うお蔭になってこんのだ。まあここに参って来ておる人達には、秋山さんなんかもやっぱその実証者である、中村さんなんかもそうである、中村さんなんかちょうど最近い、胃が悪くてお母さんばっかりしか頂いてなかった、毎日痛くてたまらん、ね、たまたまその朝のご祈念に、その事を御理解を頂いてです、はー、ホンに私がこの胃と言う、この痛みと言う事をね有り難く頂く、頂かなかったと、早くこればようなしの様なその、こればもうとに角お入だそう、お入だそうばっかり思うとったのに、今日からはこの胃ば拝もう、この胃、この胃を頂こうと言う気になった、有り難くいた、ね、その煮て食する時、神様頂きますという心あらばになった訳なんです、神様この胃を頂きますという心あらば(そばにくるごつ?)帰ったらもうどうなかったち、その日から固い御飯頂いておる(そりゃさいばく?)前の話しじゃった。ね、神様頂きますという心あらば触わる事なしと言う実証者になられた訳なんです。だから本当に神様ちゃ不思議な御方、有り難い御方と、んなら頂いたご理解と自分が実証した事を人に伝えて行くならば、必ず人がほーと言うて聞くはずです。私はね、合楽の信心をなさるなさるの場合ですね、私がここを、ここを極めて行こうとしておるんですから、皆さんもその姿勢になられなきゃだめだと思う。ね、だから稽古ですから、なるほどまだ不十分です、私の場合でもそうなんですけれど、それをだからスッキリする所までです、言わば金、楽じゃという所まで私は極めていって、なるほど教祖様は一言だって嘘をおっしゃってはいない、オーバな事はおっしゃっていない、こちらがその気になりゃおかげが受けられると言う証を立てて行く、いわいる金光大神の言葉を、の証を立てる実証者に私共が成らせて頂くと言う事が、まず第一じゃないでしょうか。とても風邪引いてから、四日も五日も寝らないかんち言うてから、合楽の信心頂いておると思われません。とまずその人は思わないけん。ね、そうしてです例えば、そう言う頂き方が自分が無関心であった事を知らなきゃいけません。金光大神が教えた事を、違わぬように人に伝えて行くためにも、ね、金光大神が言われた事を、金光大神が教えた事を、私がまず一つ自分の、が実証してそれを人に伝えていくのが、神様へのお礼なん、なるほどこれならお礼になるだろうと思います。なるほどこれなら、それが神になるのぞとおっしゃる、これなら絶対神になれると思います。ね、最後に神より上になるなというのは、ね、そう言うおかげを受けられるようになったからと言うて慢心はするなとおっしゃる事だと思うんですけれどもね。もう絶対そこん所をてっ、的確にね頂いていけれる信心、教えのもう一つ一つがです、ね、私共が実証して行く、行けれる、又いかなければならん責任をです、金光様の御信心を頂いておる者なら一人一人がそれを感じなければいけん。ね、所が金光大神の教えられたことをこの頃は、おろそかにする、そして御用、御用ちゅ言うたごたる風でその、まあお参りすらすりゃええ、御用すらすりゃええって言ったような信心に、私は、いわいる生きたものを無くして行く為のような信心にだしていきよる様な気がする。ん、そして、人やら、物やら、金やらばっかり頼ろうとする。そして金光様では、ん。ですから私共は思うんです、ね、例えばんなら風邪を引いて、んなら休ませて頂いた、そこまでの分が頂けていないとするならです、頂けてないそこん所にじっし、そう言う意欲んかけておる事に対して、本当に風邪を引かせて頂いたと言う事に対しては、お礼を申し上げながらです、お詫びをしていかねばならんことが分かります。ね、真剣にもう金光大神の心に触れるようなお詫びをしていかにゃいけません。貴方がこのように教えておって下さるのに、それの、行じる事も出来ず、実証する事も出来ず相済まん事だと、ね、けれどもです、ここからまた一部づづでも、一厘づづでもそこん所を実証させてもらえる私にならせて下さいと言う願いと、お詫びと、私はお礼がその中にもいるんじゃないかと思うんです。ね、皆さん一つ本気で一人一人ですね、金光大神の言われる事の実証者に成ろうじゃないですか。ね、と言う事が、自分が楽に成る事のようです。どんなに例えば、風邪が流行らば、流行れでございます。(ひとっつも?)恐れに足りんのです。ね、その中からもしろ有り難い体験が生まれて来るのです。昨日私は、こういう事を頂いた、「親よく子を知る、子また親を知る」ここに信心のてんさい教育の(たいかがあるた?)これは私、十何年前にこの事を頂いておってから改めてこんな言葉で頂いて、確かにそうだと思います。「親よく子を知る、子また親を知る」ね、だからお互いが何にも言わんですむんだとこうやって。ね、そこにね、信心のてんさい教育の(かいか?)がある。素晴らしいでしょう、ね、私は極めたらねここまでいかなきゃいけんのです。皆さんが私を大変よく知って下さる、もう本当にね、もうがっかりするような事がありますよ。私はよく知っておると思いながら、本当に私の(おわんつばん?)とこばかりこうこうさすった様なして、して私を十分知っておると言うような事を、おー、言う人があります。ね、ぞれぞれてきに私がまた皆さんを本当にまだよく知ってない。ね、お互いに研究しあおう、本当に知る。これは私と、私の子供達の場合をとって見るとよく大体分かります、ね、あーまあお蔭を頂いてから、私という者を、信心の内容は(ともろ?)としてよく子供達がしっ、まあだんだん知っておるように思うです、どこの子供だって同じです、家の親の事知っていると、私も子供の、を知っている、(ちょうしょう?)も欠点も知っている。ん、ですからそこの所を神様へただ祈って行く。(負けちゃいけん?)とまではいかなくてもですね、私の子供達がですね頭が悪いとか、ね、ぎ、ぎりょうが悪いとかと言いながらも、それなりにお育てを頂いておると言う事がありましょうが。私共の子供一人一人が。こりゃぁね、あた、親がねガチャガチャ言うて教育どんしてからでけ、出来る事じゃないです。それは、私が子供をよく知っておるからです。子供が私をまたよく、ある意味よく知っておるからです。だから、もっともっと知り会うていかなければならん事は、勿論です。そこにね、言わんですむと言うお蔭が受けられるのです。そこに神様が自由にお育て下さる、いわいる神様がお育て下さるんですから、神様がてんさい、教育をなさるはずです。もうこれは、私はもう本当に子供一人一人の上にそれを感じます。ね、私はそのような事を本当に、いー、実証して行く、信心者になりたいと思います。ね。ここでは皆さんが、ね、これが神へのお礼ぞとここに言うておられる所は、いわいる金光大神のお礼ぞにつながるのであり、言うならば、親先生のお礼ぞにもつながるん訳なんです。ですから、ここで私が言っておる事を、なるほど親先生がおっしゃる通りと。昨日、二十一日が、えー、「くまがえ?」さんの吉井地区の共励会、二十日のが一日伸びておりますと、いわあちらでお話を(しわれた?)事、「畑野?」さんと、おー、「くまがえ」さんが皆さんが帰られた後に又、あー、晩、夕食まで、えー、共励し合われたと、とにかく親先生のおっしゃる事をその事が、もうそのままここにこの様にして現れますのーて言うて、お話しをいたしましたとこう言うておられます。ん、言うならば、親先生が言うておられると、嬉しさが間違えがないと言う事なんです。いわいる、親先生の言われる事をです、の皆さんが実証者に成っていかなければならんのです。そこに証が立てられる時です、あなた自身も楽に成っておる時であり、あなた自身もおかげを受けておられる時なんですから、そういう事になるでしょうが。それが、親先生へのお礼なのだ。そのお礼が金光大神に通い、天地金乃神に通い、するのでないでしょうか。ね、今日は、ね、はー、「真の道をふんでいくのぞ」と言う所も大変大事だけど、ここは申しませんでしたが「金光大神が教えた事を違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが神へのお礼ぞ」と言う所を、まあ今日(ちゅして?)お話させてもらったつもりです。ね、それには、私共金光大神の、を、が教えられた事を私共が身を持って、ね、金光大神は嘘はおっしゃってない、オーバーじゃない。ね、と言う事をです、よく私の事をね先生はちーとオーバーだもんねって言う人がありますよ。所が実際神様から頂いた事から言うたら、もう実を言うたら本当はオーバー所じゃないまだ、少ししか言うとらんとですよ。それを先生はオーバーじゃと言う所にですお蔭の受けられない基があるです。これは昨日「くまがえ」さんもそのお届けをしながらいわ、言うておられました。確かに昔からお話は聞いちゃおりましたっち。先生が赤の物を白とおっしゃる時には、ほんに白ですにゃーと言や白のお蔭になるち、聞いちゃおったけれども、合楽に来て親先生のお話を頂く、お取り次ぎを頂くように成って初めてその事が分かりますっち言うて、この共励会でそんな話しがあったそうです。昨日「くまがえ?」さんそれを言うておられます。それが実感として分かるち、赤のものでも親先生が白とおっしゃら、ホンに白ですなーと言や確かに白になるって、ね、そういう事をです。私は親先生の言われた事を実証して行く事だと思うんです。ね、それが実証していく事、その事が親先生への私はお礼であり、それが又、神になるとおっしゃる程しの事につながっていくんだと思います。どうぞ。